青い遺伝子を持つ男
 
 初めてウンベルト・ペリッツァーリを見たのは、南フランスの古い港町で開かれていた世界的な水中映画祭のスクリーンでだった。1933年がそろそろ終わろうとしている頃で、彼は、”ピピンとペリッツァーリ”という水中レビューのような映画に出演していて、イルカよりもたおやかに水中を滑るようにして泳いでいた。
 帰国後、ある航空会社の機内誌の特集で知ったのだが、私がスクリーンで見た2週間ほど前に、彼はアブソリュート競技で水深123メートルに達し”世界一深く潜る男”の称号を手にしていた。機内誌を読みながら、「いつか彼と仕事をしてみたい」そんな予感めいた願望を抱いていた覚えがある。
 「ウンベルト・ペリッツァーリからの取材依頼」という思いもよらない話が舞い込んできたのは、1994年9月の事だった。機内誌の特集で、ウンベルトのメディカルチェックを担当した関邦博博士に取材の打診があり、それを関博士が親交のある私に取り次いでくれたのだ。
 急遽テレビ局と話をまとめ、取材に出掛けることになった。場所はイタリアのサルディニア島、挑戦日は10月2日だった。
 出発を一週間後に控えた9月中旬、ウンベルトの活動をマネージメントする会社から記録挑戦を中止するというファックスが突然入ってきた。それを追いかけるようにして、ウンベルト本人からもファックスが送られてきた。ファックスには、突然の中止を詫びる丁寧な一文と、9月22日のトレーニングで、120メートルの水深から浮上する際に、水深10メートルあたりで脚に異常が発生したこと、トレーニングを中止し検査を受けなければならないことなどが書かれていた。
 障害の完治と再チャレンジの知らせが届いたのは、翌年、1995年の2月3日だった。ウンベルトが挑戦する種目はコンスタントとヴァリアブルの2種目。挑戦予定日はコンスタントが7月16日、ヴァリアブルが7月23日。場所は中止になった前回と同じサルディニア島だ。2種目とも取材したかったのだが、あいにくスケジュール調整が上手くゆかずヴァリアブルのみの取材となった。
 5月中旬、取材打ち合わせのためパリで会うことになった。ウンベルトはサルディニア島で再起に向けてのトレーニングに入っていて、日帰りの強行スケジュールで出向いてくれた。ハリウッド映画に出てくる”憎めないイタリアギャング”のような小太りのマネージャーが一緒だった。型通りの挨拶の後で取材契約を取り交わし、昼食を共にしてウンベルトは慌ただしく帰っていった。
 ウンベルトとはこの時初めて会ったのだが、”寡黙で、控えめで、折り目正しい好青年”というのが第一印象だった。何かに例えるなら、さわやかな一陣の風と言ったところだろう。

 7月17日夜、サルディニア島、カイアリ空港に到着。税関を出ると妹のステファニアが迎えに来てくれていた。ステファニアから前日にコンスタントの世界記録を樹立したことを聞き終えた途端、見計らったように彼女の携帯電話にウンベルトからのコールが入った。電話越しに「記録達成おめでとう」を言い、翌日のスケジュールを確認し、翌朝の8時にホテルのロビーで会うことを約束した。
 約束の時間にロビーに降りて行くと、ウンベルトは既に待っていてくれた。手短に打ち合わせを済ませ、ウンベルトの運転する車で港に向かうことになった。ヴァリアブルの本番に向けての調整を早速取材するためだ。
 港に着くとスタッフが鮫号に器材を積み込み、関係者や取材カメラマンが乗船しているところだった。フランスのナンバーホンスポーツ誌のおかかえルポライターが、2台の水中カメラを手に待機している。聴けば、1週間前から張り付いているという。イタリアのテレビ曲も何組か乗り込んでいる。ウンベルトの再挑戦がいかに注目されているかがよくわかる。
 しかし、ウンベルトに緊張の色は見えない。「チャーオ」スタッフや関係者に陽気に声をかけては、私のことを紹介してくれる。
 私の紹介を終えると、「撮影したいものがあれば何でも言って欲しい。食べ物は食堂にあるから好きに食べればいい」そう言い残してウンベルトは選手のデッキに出ていった。
 しばらくしてデッキを覗くと、バスタオルで顔を覆い寝そべっているウンベルトがいた。船が目的の海域に着くまでの20分くらいの間、デッキがキャビンになったり、キャビンがサンデッキの机になったりしたが、ウンベルトはいつもそうして現場に向かっていた。特にピリピリしたものは伝わってこないが、この時だけは誰も彼の側に近寄ろうとしない。瞑想でもしているのだろうか。いずれにしても入水前のとても緊張した、とても重要な時間に違いない。
 それでもウンベルトは周囲への気配りを直前まで怠らない。しかもごく自然にである。したがって鮫号の中は、緊張しているけれど、いつも居心地の良い空気で満たされている。
 船がアンカーリングを始めると船内がにわかに慌ただしくなる。
 船係のスタッフ、レスキューダイバー、取材陣、オーガナイズスタッフ、銘々が黙々と準備を始める。喧騒に包まれ始めたキャビンでウンベルトも準備を始める。身体に石鹸水を塗りウエットスーツを着込み、コンタクトレンズをつけ船尾のプラットホームに向かう。プラットホームでフィンを着け、十字を切って静かに海に入る。この瞬間からザボーラに向かうまで、アシスタントが影のように寄り添う。

 前日の調整水深は90メートル、この日は95メートルだった。
 ザボーラに乗って海中に消えたウンベルトが、再び海面に姿を現したのは2分半近く経過してからだった。「パーフェクト」そう大きな声で言うと、海面でフィンをはずし、ウエットスーツを脱ぎ船上に上がった。そしてスタッフになにやら声をかけ厨房に入っていったかと思うと、チーズを挟んだパンをかじりながら戻ってきた。半分をちぎって私にすすめてくれる。
 なんというしょっぱさ、旨いけれどとにかくしょっぱい。日本の健康グルメ評論家が食べたら、問題なくワースト5に入る塩辛さだ。これを、ウンベルトも他のスタッフも水を飲みながらムシャムシャ食べる。海に入っている時間はせいぜい30分ぐらいのものだが、極度の緊張が相当エネルギーを消耗するのだろう。
 全員がチーズとパンをムシャムシャ食べ、水をがぶがぶ飲みながら帰途につくのだ。このムシャガブタイムは調整日も本番の日も日課のように続けられた。
 帰港すると、三々五々宿舎に帰って行くスタッフや取材記者を横目に、ウンベルトと私は鮫号の横に停泊している漁船に乗り込む。ウンベルトと顔なじみの漁師の船だ。
 デッキに置かれたテーブルには、大きな鍋と冷えた白ワインがのっている。ウンベルトが漁師たちに私を紹介しながら、鍋の中の料理を皿に取ってくれる。それを見計らって船長が冷えた白ワインを紙コップにすり切りについで手渡してくれる。
 プレランチとでも言えばいいのだろうか、ウンベルトはトレーニング報告などを賑やかにしながら、鍋に直接フォークを突っ込み舌鼓を打っている。鍋の中身はイカとタコのぶつきりと細いスパゲッティをトマトソースで煮込んだもので、やはり塩がよくきいている。料理を誉めるのもウンベルトは忘れない。「うまい。うまい」を連発しフォークを口に運ぶ。塩辛いものばかりこんなに食べていいのかと、他人事ながら心配になってくる。
 そう言えば、彼はご飯に塩や醤油をかけて食べるのも好きだ。チョコレートは自らジャンキーというほど好きだし、コーラもガブガブ飲む。
 マイヨールは、自分が健康にいいと信じる食物を積極的に食べるが、ウンベルトは好きなものを食べたい時に食べ、嫌いなものは食べない。自己管理のジャック・マイヨールに対し、自然体のウンベルト・ペリッツァーリといったところだ。

 調整のトレーニングは、おおよそ下記のようなスケジュールで7月21日まで行われた。
 9時:出港
 9時半:現場到着(機材セッティング)
 10時:ウンベルト入水
 10時半:潜降トレーニング・機材撤収
 11時半:帰港

 潜水深度は7月18日が95メートル。19日が96メートル。(予定は100メートル)。20日の調整では目標水深の105メートルに達した。21日は80メートルと軽目に抑えた。いずれにしても、最終調整日を除けば本番と言ってもいい大深度だ。
 漁船ランチを済ませてホテルに戻ると、ビーチサイドのレストランではチームのメンバーが賑やかに昼食をとっている。我々が戻るのはたいていデザートタイムにさしかかった頃で、ウンベルトがフルーツを山盛りにした大皿を手にして輪の中に加わり、お喋りで盛り上げた後お開きという感じだ。
 ウンベルトがメンタルトレーニングとして取り入れているヨーガの撮影やインタビューは、昼食の後に1時間半の休息をはさみ夕方暗くなるまで行った。
 さすがに本番前日の取材は我々が遠慮し、当日、挑戦前のインタビューについてはウンベルトの方から遠慮してほしいという申し入れがあったが、それにしてもこのタイムスケジュールといい、その中での気配りといい、大事を控えた人間のものとはとても思えない。今、改めて考えてみるとその思いはなおさら深くなる。
 あの時のウンベルトは、あのピピンが失神した水深101メートルに、さらに4メートル足した世界記録への挑戦を数日後に控えていたのだ。しかも、一時はリタイアも決断せざるをえない絶望的な精神状態から立ち直ったばかりで、常人なら自分のことだけで精一杯、下手をすれば自分のことにすら手がまわらないはずだ。
「人間が行く事のできない水深」を、平然と目指したマイオルカの精神状態が僕には理解できない」そうウンベルトは言っていたが、マイオルカに言わせれば、ウンベルトの方こそ理解できない人間だろう。
 しかし、彼は連日周囲に気を配り、座を盛り上げ、3日間の取材を楽しげにこなし、22日には何の問題もなく105メートルのヴァリアブル競技世界新記録を樹立した。調整の段階でクリアしているのだから当たり前と言ってしまえばその通りなのだが、彼の行き着く先は、何度も言うがあのピピンが失敗した水深にさらに4メートルを足した水深である。 ”水が水に入ってゆくように、つまり水に融けること”ウンベルトはアプネアの極意をそう表現するが、海に入ってから出る時までがすべてで、海以外の次元での出来事は空気のように気にならないものなのだろう。
 1996年の夏、テレビの仕事でウンベルトと慶良間を訪れた折り、私は、彼が海に融けてゆくのを目の当たりにした。この時、彼は、アブソリュート競技の世界記録挑戦(131メートル)を2ヶ月後に控えていて、45〜50メートルの素潜りトレーニングを日課にしていた。私はトレーニングパートナー(といっても潜降前に受け取ったシュノーケルを、浮上地点で待ち受けていて手渡すだけのもの)を務めたのだが、この時水深50メートルの海底へ真っ逆様に滑降して行くウンベルトを真上から見ることができたのだ。海面から射し込む白い光の矢が集結するところへウンベルトは揺らめくように融けてゆき、再び揺らめくように実像となって現れるのだ。
『この男の身体には、きっと海と同じ青い血が流れている』これが、その時私がウンベルトに対して抱いた新しいイメージだ。
 「ジャック・マイヨールの後継者はウンベルト・ペリッツァーリ」これは巷間言われていることでもあり、マイヨールもどちらかと言えば気分良く認めていることだろう。
 だがはたして、そうだろうか。この2人は似て非なる2人、アプネアの両極に立つホモドルフィネスだと私は思うのだが。
 マイヨールは、思想的かつ理詰めで昇華しようとしている、いわば後天性ホモドルフィネスであり、一方のウンベルトは海の遺伝子を生まれながらに受け継ぎ、血の宿命で昇華してゆくような先天性ホモドルフィネス、生まれ持った資質からしてまるで違うものを感じる。
 ダイビングに対する考え方も正反対だ。
 「ダイビングは愛であり、記録を追い求めることではない。今我々人類がすべきことはイルカや鯨に学び、海への愛を深めることだ」マイヨールは言う。人類で初めて100メートルの深海に達し、身を持ってアプネアの科学を立証してみせた男の発言は重く深い。
 しかし、ウンベルトは臆することなく反論する。「僕は愛で潜るのではない。本能のおもむくままにそこへ行くのだ」そしてこうも言う。「僕が潜るのは記録のためだ。何故なら、後援者や僕に注目しているマスコミ、僕を支えてくれる仲間たちに応えるために、僕は記録をつくらなければならないのだ」と。
 マイヨールと較べるとなんと青さの残る発言だろう。しかし、ウンベルトは、まだ深海への扉を開けたところなのだ。もし身体に潜む海の遺伝子の望むところまで彼が行き着いた時、先人たちが誰一人として聞けなかった海の心の叫びを持ち帰り、私たちに聞かせてくれるはずだ。  余談になるが、サルディニアでは、毎日の送り迎えをウンベルトが自らハンドルを握ってしてくれた。大事を控えた彼にそんなことをさせるなど、とんでもない話である。日本人的感覚ではそうなるのだが、私はそういうことには疎いタイプだし、「1人で行くのも一緒に行くのも一緒」と彼も気軽に言ってくれたので遠慮なく甘えることにしたのだ。
 おかげで、朝の8時から夕食を終えるまでウンベルトに密着することになり、満足のゆく取材ができたばかりか、友人になるという願ってもない幸運に恵まれることになった。

 7月19日、友人になるセレモニーは、調整を終えて帰る途中のムシャガブタイムに突然行われた。私は厨房でチーズを頬張っていたのだが、ウンベルトに呼ばれてデッキに出るとウンベルトとスタッフの一人に両腕をがっちりフックされた。同時に上から海水が顔をめがけて降ってきたのだ。そしてウンベルトの高らかな宣言で、私はめでたく「今日から、ウンベルト・ペリッツァーリ・ダイビングチームのメンバーだ」ということになったのである。
 この日を境に、私のコールネームが「アヤカワ」から「ノーブ」に変わり、チームメンバーはもちろん気難しいマッシモまでが、ニッコリ笑って「チャーオ」と声をかけてくれるようになった。マッシモに関しては、ウンベルトと心から信頼しあう関係だから、「ウンベ(この時はペーロではなく皆がこう呼んでいた)が決めたことならいいだろう」と思っていたのかもしれない。しかし、マッシモの”ニッコリチャーオ”はずっと続いたし、ウンベルトの調整データを記録した大切なトレーニングボードを記念にプレゼントしてくれたのだから、彼も少しは私のことを気に入ってくれたのだと思う。
 友人のセレモニーがあったその日の夕食から、ダイニングルームに行くとチームメンバーの誰かが必ず席を作ってくれるようになった。食後にはウンベルトの両親がテーブルに呼んでくれ、ウンベルトを通訳にして子供の頃の話を聞かせてくれたりもした。
 メンバーも両親も、陽気で、気さくで、実に気配りがゆきとどいている。この親にしてこの子あり。類は友を呼ぶである。
 現在、ウンベルトと私は良きビジネスパートナーであり、とても親しい友人である。
 日本ではジャック・マイヨールほどは有名ではないが、彼よりはるかに大きな可能性を秘めているこの友人のために、彼がこれからしようとするすべてを克明に伝えていきたいと思っている。

  1996年9月新記録挑戦に立ち会った後で…。